「ダルタニャン物語」の時系列
デュマのあいまいな時系列設定を理解するために、ちょっくらまとめてみました☆
- 緑字は推測年月日。
- その他は実際に「ダルタニャン物語」に書かれている記述。
- 印はCOASAの推測コメントです。
第一部
- 1−1 1625年4月
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- 1−2
- 1−7 ここで1〜2年経っていそうだけど、1−14でまだ1625年らしいので…?
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- 1−8
- 1−11 1625年7月上旬
- 1−12
- 1−14 1625年9月末?
- 1−11から時間は経ってないはず…。
- 18ヶ月後にラ・ロシェル包囲戦
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- 1−16 1625年9月20日
- 10月3日に舞踏会
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- 1−28 1627年 2週間後の5月1日に戦争開始
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- 1−1 ダルタニャン18歳 ミレディー21,2歳
- ローシュフォール44,5歳
- 1−2 アラミス20〜23歳
- 1−7 アトス30そこそこ バザン35〜40歳
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- 1−8 コンスタンス25,6歳 ボナシュー51歳
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- 1−12 アンヌ26,7歳
- 1−14 リシュリュー36,7歳
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- 2−1
- 2−8
- 2−10 ダルタニャンは7,8ヶ月前にパリに出てきた?
- (byリシュリュー)
- これはありえないと思うんだけど…。
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- 2−11 1627年6月28日
- 1627年9月10日 パリへ出て1年間(ダルタニャン)
- 2年半経ってるんじゃ…?
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- 2−12 1627年11月はじめ
- 2−15 1627年12月3日
- 2−19
- 2−29 1628年8月23日 バッキンガム公暗殺
- 2−30 1628年8月23〜25日
- 2−31 1628年8月25日
- 2−37 1628年9月6日
- 2−38 1628年10月28日 ラ・ロシェル落城
- 12月23日 国王パリへ凱旋
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- 2−1 ケティー20〜22歳
- 2−8 ミレディー26,7歳
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- 2−19 フェルトン25,6歳
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- 2−37 ダルタニャン21歳
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第一部〜二部の間
- 1631年までアトス軍籍に(2−38)
- 1633年10月11日 アトスとマリー・ミション、一夜の宿(3−22)
- 1634,5年 マザランフランスへ(3−2)
- 1635年 フーケ、ヴォー・ル・ヴィコントの館を建てる(10−38)
- 1642年 ダルタニャン、チクトンヌ街へ(3−5)
- 6月頃 ダルタニャン、アトスから手紙をもらう
- ブザンソンの包囲戦(3−7)
- 1642年12月4日 リシュリュー死(3−1)
- 1643年 ローシュフォール、バスチーユ入り(3−3)
- 1644年8月2日の日付
- 王妃、シュヴルーズ夫人に子どもを見舞うよう頼む(10−4)
- 1645,6年 アラミス、ノワジーにて国王の双子の弟フィリップに会う(10−28)
- 1645年 フィリップ、傅育官とともにノワジーを去る(10−4)
- 1653年の分の記述とつじつまが合わない。
- 1646年9月 ポルトスの領地で盛大な狩猟が催される(3−7)
- 1647年4月 ダルタニャン、ポルトスからの手紙を受け取る(3−7)
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第二部
- 3−1 1648年?1月7日〜12日
- 1648年だとおかしいところもあるんですが、他に考えられないので。ちなみに高等法院のフロンドは、1648年8月26日〜1649年5月30日
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- 3−2
- 3−4
- 3−6
- 3−7 1648年1月の朝
- 1648年に使った胴着?
- 今が1648年だとしたら不自然な表現…。
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- 3−8
- 3−10
- 3−12 春の気持ちのよい朝
- 3−7から時間はたいして経ってないのに、もう春なの?
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- 3−15
- 3−16
- 3−17
- 3−22
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- 3−1 マザラン46歳 ダルタニャン39,40歳
- コンデ公26,7歳
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- 3−2 ギトー64歳
- 3−4 アンヌ46歳 ルイ14世10歳
- 3−6 ダルタニャン40歳 マドレーヌ25,6歳
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- 3−8 フリッケ13,4歳
- 3−10 アラミス43歳
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- 3−15 アトス49歳 ラウル15歳くらい
- 3−16 アンリエット(母) 40歳前後
- 3−17 ルイズ7歳
- 3−22 シュヴルーズ夫人44,5歳
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- 4−1 ギーシュ18歳
- 4−3 モードント23歳
- リルの首斬役人55〜60歳
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- 4−8 ウィンター卿45〜50歳
- アンリエット(娘)14歳?
- 2部の設定の方が怪しい
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- 4−17 マイヤール65,6歳
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- 5−7 1649年1月29〜30日
- 5−8 1649年1月30日 チャールズ1世処刑
- 5−17 1649年2月1日
- 6週間フランスを留守にしていた
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- 5−28 1649年2月
- 5−33 パリ条約 3月30日?
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第二部〜三部の間
- 1650年 チャールズ2世、スコーンで王位につきイギリス入り(6−9)
- 1651年9月3日 チャールズ2世、クロムウェルに破れフランスに逃れる(6−9)
- 1653年 フーケのヴォーの庭園ができる(10−38)
- フィリップ、王妃からの手紙を読み、その後教師と乳母毒殺される(10−28)
- 1658年9月3日 クロムウェル死(6−9)
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第三部
- 6−1 1660年5月中旬
- 6−8
- 6−14
- 6−15 1660年5月
- 6−18 7,8日前、アラミスよりポルトスへ「春分より先に着きたければただちに出発」という手紙。
- 春分はもう過ぎてたんじゃないのかなあ?
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- 6−23 1660年6月上旬
- 6−43
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- 6−44
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- 6-1 ラウル24,5歳
- 6-8 ルイ14世22歳
- 6-14 ダルタニャン54歳
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- 6-43 マザラン59歳?
- 58で亡くなったはず。
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- 6-44 コルベール、ルイ14世より13歳年上(36歳)
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- 7−1 1661年3月8日 マザラン死
- 7−5
- 7−7
- 7−24
- 7−33
- 7−34
- 7−36
- 7−41 1661年3月31日 王弟結婚
- 7−43
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- 7-5 ラウル24歳
- 7-7 フーケ司祭40〜45歳
- 7-24 アラミス57歳
- 7-33 ワルド24,5歳
- 7-34 アンリエット17歳
- 7-36 ノーフォーク26,7歳
- 7-41 トネー・シャラント21,2歳
- 7-43 アンリエット16歳?
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- 8−2 1661年5月31日
- 8−5
- 8−14 1662年?
- 1662年の記述はここしかないので誤りっぽい。
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- 8−16〜9−29 <フォンテーヌブロー編(2週間)>
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- 8−22
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- 8-2 ベーズモー60歳
- 8-5 アラミス55歳?
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- 8-22 ルイズ17歳
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- 10−3 1661年
- 23年前の9月5日にルイ14世が生まれた
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- 10−30
- 10−37 1661年8月15日
- 10−38 1661年 →1653年にヴォーの庭園ができてから8年しか経ってない
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- 10-3 ルイ14世23歳 マルキアリ23歳
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- 10-30 モリエール40がらみ
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- 11−37
- 11−エピ 4年後
- 1666年 →1月前 (1666年1月20日)太后死
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- 11−ダル 1666年?
- 英仏同盟、イギリスvsオランダ
- 春出発
- ダルタニャン、フリーズ地方にて死
- 情報いただきました!
フリーズ地方とはここを差すらしいです。→wiki「フリースラント」 ダルタニャンは史実とは違う場所で戦死したようですね。(きっきさんmerci!)
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2002-07-04 作成